原発事故後の全村避難に村長として対応。その経験と教訓を若者たちに伝える。

菅野典雄さんは村で酪農を営み、嘱託の公民館長として勤務した後、村長を6期24年務めました。地元の方言で「丁寧」「心を込めて」を意味する “までい”というキーワードのもと村づくりを進めながらも、東日本大震災と原発事故発生による放射性物質汚染に伴う国からの全村避難指示について最前線で交渉。住民の生命と暮らしを守りながら、村の復興への道筋を描きました。任期満了後は飯舘村に暮らし、執筆や講演活動等を行っています。震災時には交渉相手だった環境省の若手職員が、毎年のように菅野さんのもとを訪れているほか、南相馬市にある人材育成等を行う団体「あすびと福島」では、首都圏企業等向けに講師を務めています。村長職を離れた今、なぜ多くの人が菅野さんの言葉に耳を傾けるのでしょうか。「震災の体験だけを伝えればいいのではありません。そこから、何を学ぶか。二度とあってはいけないこの事故から、どんなバトンを受け取るかが大切です」と菅野さんは語ります。

環境省の職員等が学びに訪れる菅野さんの自宅。入口付近には酪農をしていた当時の看板が残されている。

村民の生命を守り、村の未来を描くために車で1時間以内の場所への避難を決断。

飯舘村は福島第一原子力発電所から北西30〜50km圏内に位置します。事故発生当初、村は一部を除いて避難区域ではありませんでしたが、その後放射性物質による汚染が分かり、全村避難を余儀なくされます。確かに遠方への避難は安心かもしれません。でも、地域のつながりは失われ、復興が難しくなる可能性がありました。そこで、菅野さんは避難指示まで少しの猶予期間があったこともあり、避難生活と避難終了後の復興を見据えて、車で1時間以内で飯舘村に来られる場所を条件に村民の避難を決断。また、屋内であれば国の基準の年間20ミリシーベルトを下回ることから、移動することがリスクとなる高齢者が多い特別養護老人ホームと、村の雇用と経済を支える菊池製作所等の工場はそのまま村内で運営することを国との粘り強い交渉の末に承認を得ます。「任期中には『村民の生命を何だと思っているんだ』とたくさんの誹謗中傷を受けましたね」と菅野さんは振り返ります。

国と住民との間で板挟みになりながらも、村の避難の方針等を決めた経緯を語る菅野さん。

「公正無私」を胸に村の未来を描く。そこに困難な時代を生き抜くヒントが。

しかしながら、菅野さんが決めた取り組みは、引退後の今も村の復興を支えています。2017年に一部地区を除いた避難指示が解除されてから住民の帰還が始まり、2023年6月現在では約1500人が村に住んでいます。帰還率は25%ほどですが、避難指示区域だった他の地域と比べて高い水準です。また、周辺から通勤等で関わり続ける人も多数おり、移住定住プログラムでは150人ほどが新たに移住しています。国と住民との間で板挟みになりながら、住民の生命と暮らしを守り、村の未来への道筋を描いた菅野さん。その決断を支えたものは何だったのでしょうか。「私は『公正無私』という言葉を村長室に掲げていました。立場や利害を超えた建設的な着地点を見出していくということです。答えは白か黒かではありません。その間にいくつもの答えがあるのです。」大局をとらえバランス感覚を持って判断することが大切だということ。菅野さんの取り組みと現在の飯舘村の姿は困難な時代を生き抜くヒントを多くの人々に与えています。

現役時代の写真。壁には「公正無私」の書が掲げられていた。

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