揺れの中で浮かんだのは、仕事でなく息子。震災によって家族の大切さに気付かされる。
南相馬市小高区は、原発事故で全区民避難となった地域。2016年に避難指示が解除され、少しずつ住民が増えてきました。その中心部、JR小高駅の西にある「小高工房」が廣畑さんの活動拠点です。避難生活等を経て、多数のメディアでこれまでの体験を発信。学生や企業に向けた講演にも取り組んできました。伝えているのは津波被害から、避難時の勤務先退職、仮設住宅での花き栽培、小高区の避難指示解除後の小高工房始動と唐辛子商品作りまで震災後に体験してきたこと。中でも印象的だったのは、大きな揺れの中で家族の姿が思い浮かんだことでした。会社人間だったという廣畑さんは「発生時に頭をよぎったのは意外にも仕事でなく、高校生の息子の安否でした」と回顧。皮肉にも、震災によって家族の大切さに気付かされたのです。津波が来たのは息子さんが海沿いを通って下校する時間帯。廣畑さんが覚悟して帰宅したところ、息子さんは壊れた自転車の修理を促され、部活を切り上げて早く戻っていたのです。
話を聞きたいという方の訪問があれば、廣畑さんの活動拠点である小高工房で話すこともあるそうです。
年間60件もの講演や取材等に対応。伝える活動で未来が変わるという期待も。
取材対応や講演等の依頼は年間60件ほど。細かく対応する廣畑さんですが「私にとって得なことは何もない」と笑います。なぜ対応するのか尋ねると「息子が無事だったこと等、私たちは震災を通じて目の前の出来事がどんな未来につながるのか分からないということを体感してきました。その経験こそが取材や講演の依頼を受ける理由なんです」と回答。その言葉からは、伝える活動によって未来がよりよくなるかもしれないという期待もうかがえました。とはいえ、話すたびに当時を思い出すのは大変な様子。しかし廣畑さんは「大切なことを見失わないよう、記憶を整理しながら対応してきました」と話します。被災後3〜4年は津波について話せませんでしたが、逆に話し出したことで「当時の記憶や気持ちを整理する時間がもらえていた」と感じているそうです。そんな伝える活動のうち8割ほどを占めるのが、高校、大学、企業などの被災地研修講師。震災発生時や講演を行った時期に、何を感じたかについて話してきました。
小高区では人目につくように活動しているという廣畑さん。なるべく屋外で活動し、区内で人が動く様子を見せるよう心がけています。
浜通りの現場を伝え続けることが大切。目の前のことをひとつひとつ、淡々と。
伝えてきたことを振り返れば、2015年までは「いつ小高に帰れるのか」「小高にまた住めるのか」「家族をどう連れ帰るか」という話をよくしていたそうです。しかし2015年に住民交流スペースを作ってからは、考え方も変わってきました。廣畑さんによると、避難指示が解除されたとはいえ「元住民でも戻る義務はない」とのこと。今後住む場所は「子育てや介護等、家庭の事情に合わせて個人個人で考えればいい」と話しています。廣畑さん自身も小高区で活動しながら、現在は息子とともに区外に居住。ただし新たな住民を増やすうえで「よそと比べて選んでもらえる、住んでもらえる街にしていくことが必要」と将来を見すえています。今後については「浜通りの現状や災害に合わないための情報を伝え続けることが大切。自分のできることをするだけです」とひと言。さらに「仕事や暮らしも含めて目の前のことをひとつひとつ、淡々とやり続けることが大切なのでは」と焦らず取り組む姿勢を見せていました。
廣畑さんの唐辛子商品。県産品を避ける消費者が依然2割いるとの報道にも「逆に8割が買っている」と前向きに受け止めています。
小高工房
福島県南相馬市小高区本町1-53
TEL:0244-26-4867