複合災害に翻弄されてきた富岡町民。避難生活に寄り添い、ともに活動。

福島第一原子力発電所から半径20km圏内にある富岡町は、2011年の東日本大震災で、沿岸部が20メートル以上の大津波に見舞われ、原発事故の影響で全町民が郡山市をはじめとする全国各地で避難生活を余儀なくされました。2017年には居住制限、避難指示解除準備両区域が解除されて町全体の約9割が居住可能となり、住民の帰還が始まります。このような地震と津波、原子力事故による複合災害に翻弄されてきた富岡町民に寄り添い、ともに活動するのがNPO法人富岡町3・11を語る会の青木淑子代表です。「私は震災と原発事故を富岡町では経験していません。でも、だからこそ、語る意味があると思っています。」青木さんは、震災前に富岡高校の校長を4年務め、その後定年退職し、2011年の震災時には郡山に住んでいました。富岡町がビッグパレットふくしま等に避難してきた時に受け入れる側としてさまざまな支援を行ったことが現在の活動へとつながっています。

富岡町の事務所にて。現在は富岡町のさくらモールと郡山市に拠点を置いて8名が活動。

私たちは原子力災害で何を失ったのか。それが分かってこそ「復興」を語れる。

「原子力災害で私たちは何を奪われたのでしょうか。何を取り戻すことで『復興』したと言えるのでしょう」と青木さんは問いかけます。避難直後は着るもの、食べるもの、住むところを町民のほぼ全員が同じように失いました。語り部としては「こんなものに困っています、助けてください」と言えば十分だったのです。しかし、年月の経過とともに、雨風はしのげるようになり、食料も足りてくる一方、一人ひとりの困っていることは異なってきます。それらは次第に複雑化して目に見えにくいものになり、体験者がただ体験を語るだけでは聞き手に伝わりにくいものになっていきます。「語り部を体験談と捉えると、狭いものになり、語る人にも限界が生じます。私は体験していないからこそ、語り部たちの体験を整理して、課題を見出すパイプ役になろうと取り組んできました。」こうして青木さんは避難を続ける富岡町民に寄り添い、多くの体験者と向き合う中で気付きます。「原子力災害が奪ったのは“ひとのつながり”だったのです。」

青木さんが富岡町を案内する際に立ち寄る「とみおかワインドメーヌ」の展望台から、防潮堤を兼ねる道路が整備された沿岸部を望む。

体験から課題を見出し、ともに答えを探す。それが“ひとのつながり”を再生するヒントに。

多くの町民は故郷を離れ、仕事や生きがいを失い、家族や友人等とも別れて暮らしていました。さらに、2017年に富岡町で避難指示が一部解除になると、町へ帰る人、帰らない人という新たな分断が生まれます。避難時は国の命令で一斉に行われた一方、帰還はすべて個人に選択が迫られています。富岡町へ帰れば、今の暮らしを手放すことになり、避難先に住み続ければ故郷を捨てることになる。いずれも苦しく寂しいものです。青木さんは一人ひとりに寄り添うことに限界を感じることもあったそうです。それでも「語り部が答えを出す必要はない、ありのままを語るしかない」と気付き、今を“崩壊と創生の狭間”と呼んで聞き手に投げかけます。「どうすればここから抜け出せるか、いっしょに考える仲間になってくれませんか。」原子力災害で失われた“ひとのつながり”。それを再生させるヒントは、体験から課題を見出し、その答えをいっしょに考えるきっかけを提供する語り部活動にあるのかもしれません。私たちにも、体験していないからこそ、語る意味があるのです。

富岡町を象徴する夜の森地区の桜並木。刻々と変わる富岡町で、語り部として活動する意義を語る青木さん。

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NPO法人富岡町3・11を語る会

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